「幸せ」
“幸せ”という表現の示すものが、
対象物の運んで来るものでないことを前提に、
私たちは、幸せになることを意図していません。
ではなぜ幸せを求めるのかと言えば、
幸せ(満たされたこころ)が、私たちの本性だからです。
ゆえに、満たされたこころ(地・素)を
覆ってしまう部類の思考や記憶が沸き起こると、
本性は本能的、反射的に、
素を隠してしまう異質を追い払おうとします。
異質を追い払うというこの運動は、
目にゴミが入ると涙が出たり、
ほこりを吸ってくしゃみを出したりすることと
同じくとても自然な働きですが、
例えば、肉体と一体化している意識上に
この運動が起こると、
偽主体である私という思考から、
非常に煙たがられてしまいます。
(自身で感情を操縦できるという無知から起こる
こころの働きに巻き込まれた状態。)
そしてこれを、どうにかして止めようとすれば、
思考は更にフル回転です。
私たちはいつもどこかに幸せを求めているように見えて、
実は幸せをどこかに求めているのではない。(地でそれそのものなので)
これがいつまでも幸せを感じられないトリックです。
このことを知れば、何においてもそれそのものの働き以外
できないことが明白ですし、
幸せになることを求める誰かもいないことが明白で、
同時に、どうにかすべき思考や記憶も
無いという証となりますから、
満たされる必要性を訴えるこころの渋滞も、
流れ出すのではないでしょうか!
私たちが幸せを求めていないその時こそ、
本来の姿はここに明確に顕われているに違いません。
本性が現われるのに、努力がいるでしょうか?
全く要りません。
幸せは、なるものではなく、
既にそれそのものであり、不動です。